2.2000年4月19日
カチャリ、とドアノブを回す音がした。
続いて室内に入ってくる足音。
「もう授業始まってますよ、先輩」
長椅子にゴロンと転がったまま薄っすら目を明けると、褐色の肌が飛び込んできた。
大きく伸びながら体を起こすと、声の主が隣に腰掛ける。
「昼飯は?」
「忘れてた」
「だろうと思った」
ほら、とサンドウィッチが手渡される。
ガサガサと開くと、カツとソースの匂いが食欲をそそり、早速一口頬張る。
「いつからここにいんの?」
「んー・・・3限くらい」
モグモグと口を動かしながら壁の薄汚れた時計を見る。
時刻は午後13時17分を指していた。
「女子たちが探してたぜ?『翼くんに誕生日プレゼント渡したい』んだと」
「知ってる。朝から何回も聞いた」
「だから部室に非難?」
「まぁね」
はぁ、とため息が聞こえた。
何だよと言いたげにジロリと睨んでみる。
「アンタがいないと俺に回ってくるんだよ」
そう言って、もう一度大きくため息を吐く。
疲れきった顔を見た限り、マサキも朝から随分苦労しているようだ。
少し申し訳ない気になり、ごめんと小さく謝る。
僕が謝るのがよっぽど意外だったらしい。
マサキがキョトンとした顔でこっちを見る。
最後の一口を放り込みながらもう一度睨んでやると、慌てて顔を逸らされた。
「つか、それは別にいいんだけど・・・」
言い訳でも言うかのように少し口篭って、再びこちらを向く。
「・・・大丈夫か?」
今度は僕がキョトンとする番だった。
思わず「は?」と間抜けな声を出すと、だから、とマサキは続けた。
「この間だったんだろ?玲さんの結婚式」
ドキリとした。
僕の大切な人の結婚式。
ほんの3日前に、玲は僕じゃない人の所へ嫁いでいった。
「な・・・に言ってんだよ。もう大丈夫だってば!失恋してからもう一年だよ?
さすがに諦めもついてるって。ちゃんと笑って『おめでとう』って言えたしさ」
早口で捲くし立てながら、ワザと明るく笑ってみせる。
しかし、目線はずっと斜め下を向いたまま、マサキの方を見ることは出来なかった。
「大体、サボってたのだって女子のプレゼント攻撃から逃げるためだしさ。
だからほら、マサキももう気にしな────────── 「翼!」
急に大声で名前を呼ばれ、体がビクッと反応する。
反射的に顔を隣へ向けると、やはりマサキもこちらを見ていて。
バッチリ目が合ってしまい、慌てて顔を逸らしてしまった。
「何でいつも、そうやって誤魔化すんだよ」
「別に誤魔化してなんか・・・」
「誤魔化してる」
きっぱりと言い切られて言葉に詰まる。
マサキの言うとおりだった。
気にしてないなんて、嘘だ。
一年経ってもまだ僕は、彼女の事を諦められずにいる。
我ながらなんてシツコイんだろうと呆れるくらいだ。
今日部室でサボってたのだって、女子のプレゼント攻撃から逃げるためなんかじゃない。
一年前のあの日の事を思い出して、ただ、無性に一人になりたかっただけだ。
早く諦めて次に進まなければ、とは思う。
けれど、そんな思いとは裏腹に、心はいつまでも引きずっている。
僕はいつからこんなに弱くなったんだろう。
「引きずってても、別にいいんじゃねぇの」
「えっ?」
思わず顔を上げると、再びマサキと目が合った。
今度は逸らさずに、じっとマサキの目を見つめる。
「翼は何でも一人で背負い込みすぎだと思うぜ。他のヤツに心配かけねぇよういつも隠れて泣いてる」
「・・・お前の前で何回も泣いてるんだけど」
「それは最初の1回だけだろ?」
言ってる意味がよく分からない。
最初の1回とは一体どういう事だろう。
僕が不思議そうに顔を傾けるのを見て、マサキが再び話し出す。
「翼はさ、何か壁にぶち当たった時、最初の1回はちゃんと泣けるのに、その後は絶対泣かねぇだろ?
例えそれがどんなに辛い事でも、人前で2回以上泣く事は絶対にない。1年前だってそうだった」
言われて初めて気づいた。
正直無意識だったけど、確かにそのとおりだ。
僕はマサキの前だと素直に泣けると思っていたけど、同じ話題で2回以上泣いた事はない。
正確には、2回目以降は一人でこっそり泣いているというだけなのだけれど。
「失恋に限った事じゃねぇけど、誰でも同じ事を何回も悔やむもんだろ。
何度も思い出して何度も悩んで、そうやって成長していくもんだと思うぜ」
マサキの一言一言が胸に響く。
緊張しているわけではないけれど、自分の心臓の音がいつもより大きく聞こえる。
「何年も思い続けてた上に、この間まで一緒に住んでたんだ。諦めきれなくて当たり前なんじゃねぇ?
・・・少なくとも俺は、相手に恋人や夫ができたくらいで諦められる自信はねぇけどな」
マサキがスッと目を細める。
まるで何か思い出すかのように。
「心配かけたくない気持ちも分かるけど、俺にくらい、もっと頼ってくれてもいいんじゃねぇの?」
呟くように言うと、マサキは少し笑って僕を見た。
僕の目には、自然と涙が溢れていた。
泣き顔なんて何度も見られているはずなのに、
涙を見られるのが妙に恥ずかしくて、制服の袖で顔を拭う。
しかし、一度崩壊してしまった涙腺は止まる事を知らず、後から後から涙が溢れてくる。
慌てて後ろを振り向こうとしたら、頭をグイッと引き寄せられて、不意に視界が暗くなった。
マサキの手が、僕の背中をあやす様にポンポンと撫でてくる。
「・・・ガキ扱い・・・してんじゃ、ねーよ・・・」
少しだけ強がってから、僕はマサキの制服に顔を埋めた。
弱い所を見せるのは、得意じゃない。
僕が泣く事で、他の誰かを困らせるのは嫌だったから。
同じ事を何度も悩むのは恥ずかしいと思っていたから。
昔から何があっても決して人前で泣かないようにしていた。
それが当たり前になっていた。
マサキに会って僕は変わった。
いや、変わったと思っていた。
マサキの前ではちゃんと泣けてたから。
でもそれは、ほんの上辺だけだった。
マサキは何も言わなくても僕の事を分かってくれたから。
マサキは僕が言いたくなかったら何も聞かないでいてくれたから。
ずっと、そんなマサキに甘えて、本当の自分を隠してたんだ。
マサキには全部バレバレだったのにね。
マサキはそんな僕に教えてくれた。
辛いときは泣いていいんだって事。
繰り返し悩んで人は成長していくんだって事。
無理にカッコつける必要なんてないんだ。
どんなに弱くても僕は僕なんだから。
僕は弱いから、これから先も何度も思い出しては泣くだろう。
でもそれは、決して無駄な事じゃないと知ったから。
玲を好きになれた事は、本当に幸せだったと思うから。
少し時間がかかったけど、きっともう大丈夫。
僕はもっと強くなりたい。
今度はちゃんと泣けるように。
そして、心の底から笑えるように。
2000年4月19日。
僕が再び前へ進めた日。
泣きたい時にちゃんと泣いとかないと悩みってなかなか消えないもんだよねって話。
(2008・4・22)